――「ふらっと」での日々を見つめて
私たちは、つい「目に見える変化」に注目してしまいがちです。
笑顔が増えた。言葉が出た。活動に参加できた――
それはたしかに、大切なことです。
「ふらっと」では、そうした変化が、奇跡のように現れることがあります。
長くひきこもっていた人が、ある日そっと玄関を開けて入ってくる。
泣きながら相談に来た人が、翌週には誰かに「お茶どうぞ」と声をかける。
人を避け続けていた人が、輪の中でふと笑う。
そのような光景は、日常の中に静かに生まれています。
「ふらっと」は、ひきこもりや人との関わりに悩んできた人たちが、
安心して「ただ、いること」から始められる場所です。
私は、初めてここに来た人たちの姿をよく覚えています。
部屋の隅に静かに座り、周囲に気づかれないように目線を避けていたこと。
声をかけても、表情は硬く、返事がほとんど返ってこなかったこと。
その姿を、無関心とは思いませんでした。
ここに来ようと決めたこと自体が、その人にとって大きな一歩だったと感じています。
「ふらっと」は、何かを話す必要はありません。何かをする必要もありません。
それでも「ここにいていい」と思える時間や空気を、大切にしています。
最近では、「話したくなった」「人と関わりたくなった」「少し変わりたい」
という思いを抱きながら訪れる人も増えてきました。
話すことを目的としていなくても、誰かの声を聞いて、同じ空間にいるだけで、
ふと、話してみようという気持ちが芽生えることがあります。
皆の輪に入りたくなる気持ちが、少しずつ顔を出します。
私は、沈黙の「ふらっと」も好きです。
沈黙の中に、心の葛藤や、言葉にならない模索があると感じています。
そのひとつひとつに耳を澄ませながら、そばにいることを続けてきました。
しばらくすると、小さな笑顔やうなずきが見られるようになります。
そしてある日、「それ、美味しそうですね」と、ぽつりと声が聞こえてきました。
誰かが持ってきたお菓子の話題に、自然と反応した瞬間です。
その言葉は、何かを伝えようとして無理に出したものではなく、
心の中でほどけた何かが、自然に外へ出てきたように感じられました。
人と人が出会うということの、かけがえのない実感がそこにありました。
その一言を、私は「進歩」と呼びたいと思います。
本人にとって、とても大きな、かけがえのない前進です。
ひきこもりの支援は、誰かを変えることでも、何かを引き出すことでもありません。
「このままでも大丈夫」と思えるような空間を、一緒につくっていくことです。
その積み重ねの先に、風が通り抜けるように、小さな変化が訪れます。
たとえば、棚田あおさんは「居場所なんて必要ないと思っていた」と語っています。
けれど今では、「社会の扉を開くことができた」と言います。
その扉は、誰かにこじ開けられたものではありません。
信じてもらえたことで、自分の手で、少しずつ開いたものです。
話せない時間にも、回復は確かに息づいています。
「ふらっと」はそのことを、日々出会う人たちから教わっています。
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