「ふらっと」は、
ひきこもりの仲間同士とのつながりを継続する場、共に成長する場、
または、店長R(私)自身のこの13年間の研究の結晶とも言えます。
信じることしかやれない、こだわりが強いというか、発達障害の特徴がひどいというか、信念、生活、仕事に分けられないタイプですね。最初は勝手に活動をしていましたが、いつの間に仲間が増えて、町内に自由に楽しく活動ができるようになった。2019年の現在は、世の中には「ひきこもり」に関する新たな学問が形成している気がする。公衆衛生学にはマイナーなひきこもり研究者の立ち位置で寂しいこともありますが、これからどんどんひきこもりに理解がある医者たちを育ちすることに楽しみにしています。ただ、ひきこもりに関する学問は現場の実践に繋がらないといけないと常に思いますね。
こうやって、私の生活は研究→活動→研究、そのように循環している気がします。
そうそう、なぜか今日はこの記事を書いているのか、自分はいかにひきこもりしているなのかを気づいたので、それを記録しないといけません。昨年の今頃、「今まで自分のシフォンケーキはひきこもりのシフォンケーキだとやっとわかった」とミカの発言を理解するようになった。私も、「今まで自分の取り組みはひきこもりの取り組みかもしれません」とわかった。長年のひきこもり研究とひきこもりとかかわることで、自分の中に「ひきこもり像」を固まっていた気がします。私の中の「ひきこもり像」は、他の人の中の「ひきこもり像」と同じなのか、違うなのか、今回の東京旅に真剣に考えているところです。
ひきこもり支援は様々、ひきこもりも様々
(※記録担当うまく記録するには、思考のプロセス、頭の回転の速さ、決断力が必要な作業でもありますが、KHJ本部の事務局長は20人弱のコメントは素早くボードで書き込んだ~ (*゚0゚)このようなスピード感はなかなか普段でのミーティングでは見えないですね。※今の写真メモの切り取りはその記録の30分の1です。)
先日にKHJの居場所づくり検討委員会に参加して、気づいたことがたくさんありました。
それに関して、「ひきこもり」に対する取り組み方や、定義に対する理解など、本人・世間・家族・行政・学者にそれぞれのとらえ方がある。立場により違うだけではなく、それぞれに抱えている背景およびアジェンダもあるように気がした。
そして、会に面白く感じたのは、人に非常に気を遣うのは、ひきこもりの人に限らず、ひきこもりを経験していない人たちもかなり気を遣うなとわかった。確かに、ひきこもりにしてしまったら、人と合わない限りに気を遣う必要もなくなるかもしれませんですね。ひきこもりになる前の一歩はかなり気を遣うことが多かったではないかと思いますが、それは誰にも気づいてくれないか、またはそこは普通だろうと思うかもしれませんですね。ならば、ひきこもりの特徴は気を遣いすぎるかもと言っても、ひきこもりにまだなっていない人には説得力が薄いかもしれませんですね。
説得するには、何かが大事だろう?学問?論文?現場の経験?所属?立場?
そもそも、説得する必要があるのか?誰に説得するの?何を説得したいの?
いつものように、頭中にまたぐるぐる~ (‐”‐;)
「ひきこもりって、いろんなパタンがあるんでいいんじゃないか」Aが良く言う。
私と比べると、Aはとても寛大です。
ならば、私が知っている・馴染まるひきこもりのパタンは「●●パタン」ですと言えるかなあ。Jが知っている・馴染めるひきこもりのパタンはまた違う気がする。Fはおそらく何パタンも困る気がする。(´・ω・`;)
愛着障がい
ひきこもりに関する精神疾患の過剰診断や抗うつ薬の投薬量の副作用について東京の福祉士の友達と相談してみたら、愛着障がいの話が出てきた。薬よりカウンセリングを重視ているクリニックを紹介してくれた。調べてみたら、その先生がいくつの本を書いていた。早速ですが、<子は親を救うために「心の病」になる>を買って読んでみました。いままでのひきこもりたちと接した過程において、自分の中にも薄く感じたテーマでもあります。本に書いていることを読んでみると、なるほど、そのように考えている先生もいるんだ。といろいろ考えこんでいました。
そして、国立精神センターや看護大学の先生たちと話してみて、新たな視点からひきこもりや不登校の課題を見つめることができた気がします。悩みの共有や相談は本当に大事ですね!人と交流しないとわからないことが多く、今まで見ていることはいかに中立に見ていると思っても、そうでもならないことがあると気づきました。
Five Breads Two Fishes
そして、静かに理想や信念を実践している方々たちの取り組みをしている姿を見れて、
固まった脳みそはまた少し柔らかくなって気がします。
お盆の「ふらっと」
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