今日は当事者からいろいろ話を聞けたと思いますが、たくさんの質問もありました。
その中に、二つの大きなテーマがありました。
① ひきこもりと親の関係性について。
何かを言われたらいやなのか?
何をしてくれたらよかったのか?
親は、「本当に、君たちが生きているだけで十分だ。」との声かけもありました。
人が悩んでいるときは、自分の気持ちを話さない限り、家族としても、お互いにわかり合うことが難しいことだと思います。苦しいときに、どのように声をかけられたらいいのか、またはただ忍耐強く黙って見守ることがいいのか、一つの答えにまとめることができないと思います。
当事者のあきこは、なぜか振り向くと、悪いことだけ覚えているばかりで、ほんとうによく考えてみたら、よかったこともあったはずですが。。。
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なんだろうね?
その思いも普通にあると思う。
社会的弱い立場(ネガティブな状況)にいると、自然に思考もネガティブになるし。
ずっと、弱い立場にいるままでは、だんだんネガティブなものしか思出せなくなるかもしれません。
逆と考えてみれば、ネガティブな状況から抜け出せたら、ポジティブな思考(希望)が自然に湧きますね。ずっと社会的弱い立場にいるではないから、自分が弱い立場にあったころのことも自然に考えなくなる(忘れてしまう・執着しなくなる)。
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私もずっとその質問について、考え込みました。
どこの家の親子も、きっと親に言われて嫌なことがあるはず。
そして、親に感謝しきれないこともあると思います。たぶん。
自分では、親に何に言われて嫌だったんだろうか?何をされてよかったと思ったのか?
こころの地獄と救いは親の言葉なのか?態度なのか?または私がその言葉で受け取った意味なのか?。。。
あなたは、どうでしょうか?ひきこもりであろうか、ひきこもりではなかったであろうか、思うとおりに行かないときに、きつく感じるときに、親から一番いやだった言葉はなんだろう?と想像して、教えてくれない?
② ひきこもりの家庭訪問に行っても、会ってくれない。どうやって、何かのきっかけに外に出ると思いますか?
支援者からよくある質問ですね。
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会ってくれないでしょう!
会ってくれるはずがないよ。と考えました。
支援者は、なぜだろう?と思うかもしれませんですが。
だって、当事者の中には、会ってろくなことがないも。
親の味方でしょう?私を外に無理あり連れていきたいだけでしょう?
私の今のままではだめだから。
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一般の支援のフォーカスは「どうやって、何かのきっかけに外に出る」
ふらっとの支援は「何であってくれないだろう?」に中心に考えている。
実際、「会いたくないではなく、会う面目がない。」とも当事者からよく聞きます。
何で?何で?堂々巡りではないか?と思っている人もいます。
何で?何で?犯人探すじゃないから、こういう質問がいらないでしょう?と思っている人もいます。
ただし、本人の中に、何かが嫌なのか、何かが欲しいのか、それはなぜなのかを知らないとまた本人が嫌なことをさせてしまう恐れがあるではないか?
私が嫌と思うことは、相手も嫌と思うかもしれません。
なお、私がそのことに嫌となった原因は、相手がそのことに嫌となった原因と違うかもしれません。好き嫌いは単純に物事に決めていくより、より細かい気持ちの動きにあると考えています。
家庭訪問するとき、どうやったらあってくれるんだろう?と工夫してみるも一つかも。
2回目の研修会に、
「来てくれて、めんどくさい・うるさい!と思ったが、ずっと来てくれたから、自分は見捨てられていないともの安心感もありました。」と教えてくれた当事者もいます。
「もう少し突っ込んでほしかった!」と教えてくれた当事者もいます(結構います)。
ひきこもりのときに、
声をかけてほしくないときもありますが、それはずっとではない。
声をかけてくれたらいいなあと思っているときもある。
どのように見分けしていくのか?
あなたはその変化に、見分けすることができますか?
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最後に、みかと一緒に研修会の録画を見るときに、一つことを気づいた。
当事者の話をするときに、参加者たちの「大変だな!」という空気感が重い!!!
笑いながら自分のことを語っていることは、不思議と思われるかなあ?
ふらっとはよく笑い・泣きながら、話すので。間も平気。
そう考えてみれば、ふらっとの日常は一般の人から見るとやはり不思議かもなあ。
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