ゾウをこなしているボアバミの絵から箱にいるヒツジまで、Chapter 1 ~ 3に進みました。
これはゾウをのみ込まれたボアに見える?石と思った。
どうだろう?
やっぱり石。
だめだよ。このヒツジは初めから病気みたいだ。別のを描いて
わかるでしょ、これは普通のヒツジじゃなくて雄ヒツジだよね。角があるもの
これすごく年寄りのヒツジだよ。僕はこれからずっと長生きするのが欲しいんだ
これはヒツジの箱。きみのヒツジはこの中にいるよ
そう。僕が欲しいと思っていたのはこんなのだよ!このヒツジ、たくさん草を食べるかな?
こだわりが強い王子様は、なぜこの箱のことを気になっていたんだろう?
自分の想像のままのヒツジがイメージしやすいから?
いいや、わからない。
私には、王子様のこの言葉が印象に残った。
「僕が欲しいと思っていたのはこんなのだよ!」
王子様はこんなものを求めたんだ?
こんなものって、なに?
なぜか、友人が言ったことを思いだした。
大事な気持ちをイメージにすると、
なんか違う感じる。
大事なことを言葉にすると、
自分の中に大事なことが
変わってしまう気がする。
『星の王子様』は私20年前に読み始めた。
10回でも読みましたと思いますが、
毎回でも得るものがありますね。
今日も変わらず、
今まであまり深く考えていなかったことは、
今日は心にやっと叩いた。
@@@@@
しばらく黙って考えていてから、彼は言った――
この箱がいいのはね、夜はこれがそのままヒツジの家になるってところだよ。
それはそうだ。いい子にしてたら、昼間ヒツジをつないておくひもも描いてあげるよ。
それからひもを結ぶ杭もね
ヒツジをつなぐ?変なこと考えるなあ
でも、つないでおかなかったら、どんどん歩いて行って、いなくなっちゃうだろ
どこへ行くの?
どこって、ずっとまっすぐ歩いて行っちゃうのさ
王子様は真面目な顔になって言った――
別にかまわないよ。ぼくのところはとっても小さいんだから
それから、少しだけ悲しげに、言い足した――
まっすぐ行ったって、そんなに遠くへは行けないんだ
@@@@@
叩いたのは
王子様は真面目な顔と少し悲しげに
自分の星の大きさについて
「遠くへは行けないんだ」と言うコメントでした。
もし王子様はサンテグジュベリのこころ中の子供としたら
星はサンテグジュベリのこころを指していたものもありますね。
この星は如何まっすぐに行っても、遠くへは行けないんだ。
なぜ真面目な顔で言わなきゃいけないんだ?
なぜ悲しむ?
星の王子様は自分のこころにいられないでしょうか?
こころの余裕が小さくて、遠くへ行きたいでも行けないでしょうか?
箱がいいな、夜にそのまま家になるなあ~って
そこは、
もしヒツジと言うものは王子様の投影としたら、
王子様は自分が大切している星と愛しているバラと一緒にいても、
自分の姿を見せない箱が欲しいの?
または、夜になったら、
一人でこもったりしたいの?
その箱は、安全なところ?
マイペースが欲しい?
あんなに星に戻りたいのに、
あんなにバラと会いたいのに、
なぜ、ヒツジが欲しいの?
なぜ、箱がいいの?
今晩は、王子様は私の夢に入ってしまうだろう。
今日は『星の王子様』の勉強会に付き合っていただいて、ありがとうございました。
次の勉強会も
ぜひ一緒に読みましょうね!
7月14日(月)
(準備 Chapter 4~6)
1 comment:
カタチと数の言葉ヒフミヨ(1234)について、こんな記事を見つける。
もろはのつるぎ
わかっているようでわかっていない事は山ほどある。自分は知っていると思っていても実は見当違いの理解をしている事もおそらく山ほどある。
(1)
サン=テグジュペリの「星の王子さま(Le Petit Prince)*1」の冒頭で主人公が6歳の頃に書いた絵のエピソードが出てくる。〔*1 内藤濯の訳語〕
もろはのつるぎ
主人公がこの絵を大人に見せて「こわいでしょう?」と聞いてまわると、大人は皆、「どうして帽子がこわいの?」
〔以下の引用は青空文庫「あのときの王子くん(Le Petit Prince)大久保ゆう訳」から〕
「この絵は、ぼうしなんかじゃなかった。ボアがゾウをおなかのなかでとかしている絵だった。だから、ぼくはボアのなかみをかいて、おとなのひとにもうまくわかるようにした。あのひとたちは、いつもはっきりしてないとだめなんだ。」
「おとなのひとは、ボアの絵なんてなかが見えても見えなくてもどうでもいい、とにかく、ちりやれきし、さんすうやこくごのべんきょうをしなさいと、ぼくにいいつけた。というわけで、ぼくは6さいで絵かきになるゆめをあきらめた。さくひんばんごう1と2がだめだったから、めげてしまったんだ。おとなのひとはじぶんではまったくなんにもわからないから、子どもはくたびれてしまう。いつもいつもはっきりさせなきゃいけなくて。」
「すこしかしこそうなひとを見つけると、ぼくはいつも、とっておきのさくひんばんごう1を見せてみることにしていた。ほんとうのことがわかるひとなのか知りたかったから。でもかえってくるのは、きまって「ぼうしだね。」って。そういうひとには、ボアのことも、しぜんの森のことも、星のこともしゃべらない。むこうに合わせて、トランプやゴルフ、せいじやネクタイのことをしゃべる。するとおとなのひとは、ものごとがはっきりわかっているひととおちかづきになれて、とてもうれしそうだった。」
(2)
(3)
(4)
(5)
数学者の岡潔は随筆集「春宵十話」のなかで書いている。
「人の中心は情緒である。(中略)数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字板に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである。」
「数学上の発見には、それがそうであることの証拠のように、必ず鋭い喜びが伴うものである。この喜びがどんなものかと問われれば、チョウを採集しようと思って出かけ、みごとなやつが木にとまっているのを見たときの気持ちだと答えたい。」
「大学三年のときのこと、お昼に教室でべんとうを食べながら同級生と議論をして、その終わりに私はこういった。『ぼくは計算も論理もない数学をしてみたいと思っている』すると、傍観していた他の一人が『ずいぶん変な数学ですなあ』と突然奇声を上げた。私も驚いたが、教室の隣は先生方の食堂になっていたから、かっこうの話題になったのであろう、あとでさまざまにひやかされた。ところが、この計算も論理もみな妄智なのである。私は真剣になれば計算がどうにか指折り数えることしかできず、論理は念頭に浮かばない。そんなことをするためには意識の流れを一度そこで切らなければならないが、これは決して切ってはならないものである。計算や論理は数学の本体ではないのである。」
(6)
和歌山市と有田市の往復だったが山頂まで広がるミカン畑とその傾斜には驚いた。何十年も「Arita」と読んで疑わなかったが「Arida」と濁ることを知って愕然とした。
有田川町は有田市の東南東に位置し有田川の上流になる。明恵上人の生誕地でもある。有田川町では絵本コンクールを実施していて、2019年(第9回)のコンクールの作品がネットで読めるようになっている。
(7)
「もろはのつるぎ」はそのコンクール受賞作品の1つ。
私は大人になってから、見ている「漢字」が字画ごとにバラバラに分解するというイメージが強くなって困ったことがある。たとえば「字」という漢字はそれはそれで読めるのだが、ふとした瞬間に「ウ」と「子」に分解するという奇妙な感覚である。
「奇」が「大」と「可」に。「妙」が「女」と「少」に、という具合。それぞれが自己主張をし始めるような感覚。
だらか「もろはのつるぎ」の内容は感覚的に何となく理解できる。
線をひっぱったり曲げたりつなげたりするのはAdobeの「Illustrator」のベジェ曲線の「アンカーポイント」や「コーナーポイント」「クローズパス」などの操作に似ています。「Illustrator」は見かけは「お絵かきツール」、でも奥では膨大な数学的な処理が行われている。
Posted by 永遠の嘘をついてくれ
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